清濁嚥下

咀嚼して飲み込んで消化して吐き出したい。

賢者と似非科学

ホメオパシーやEM菌、がんの自然治癒などに代表される似非科学・似非医学。

そしてそれらを恥ずかしげもなく広めようとする人たち。

 

その言説の中には、こんなものを多く聞く。
「私には効いた」「誰々は効いたと言っている」
だからお前にも効くはずだ(とはっきり言わなくても言外に匂わす)というあのかんじ。

 

あれー?あれー?
なんか聞いたことある、こういうの、なんていうんだっけ。

そうだ。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
ドイツの政治家ビスマルクの格言だ(調べたよ)。

 

科学というものにおいて、自分の身の回りの経験に対するウェイトはものすごく軽いと私は思っている。
先人たちの遺した膨大なデータ、様々な条件下で行った幾度とない実験を紐解いて、道を拓いていくものだと思っている。

 

ある難しい手術を勧められたときに、主治医は私にこんなことを言った。
「あなたにこの選択肢があるのは、
 今までたくさんの患者さんが難しい決断をし、データを積み重ねてきてくれたおかげです。」

 

科学に真摯に向かおうとするとき、
私は、自分をいかに小さなものとすることができるかが、大事なんでないかと思うのである。

 

いじょ。

日本の長時間・低生産性労働の根源は部活にあるとおもった話

どうもこんにちは。

アメブロから引っ越してきました(嘘)。

 

仕事をしていて、「コレはオカシイ」「コレは意味ナイ」「コレは無駄」などと思うとき、

私はそれをストレートに意志表示できない。

過労死とか、競争力低下とか、日本の働き方の問題点が叫ばれる中、
私は、
自分のこの行動がこれらの労働問題を助長していると思いながら
自分が逐一問題を提起していけば、これらの労働問題を少しでも解決に導いていけるのになどと思いながら、

何もしないのだ。

自ら粛々と長いものに巻かれにいくのだ。

この心理がどこからくるのかずっと考えていたのだが、
行き着く先は「部活」、その中でも「体育会系」だった。

ここでいう「体育会系」とは、運動部・文化部の別なく、下記のような文化を持つ部活を指す。

教師・先輩には絶対服従。
疑問を持たずに言われたことをやる。弱音を吐かずにやる。
理論・成果・ブラッシュアップなどという概念は捨てる。
自分が先輩になったとき、自分がやらされたことと同じことを後輩にさせる。

私は中学の時、いったん運動部に入ったものの、この「体育会系」とか呼ばれる文化というか、ノリというかが大嫌いで途中から幽霊部員となり、高校はもっとも活動日が少ない文化部を選んだ。
しかし、生徒の大半がこの「体育会系」に疑問を持たず、自分がはみ出し者であるのだという自覚はあった。

つまり、社会に出ても、周りの大半の人間は、この「体育会系」に染まった人間なのだろうという意識が私の根底を支配しているのだ。

そして、誰かのことを「体育会系」と評するとき、
それが同等もしくは目下の人間を指すときは「疑問を持たず何でも言うことを聞く便利な人間」、
目上の人間を指すときは「理不尽なことを有無を言わさず強要してくる厄介な人間」、
という文脈で語られることが少なくないことを知っている。

新卒採用の際、どの学校の何部に所属していたかが、無視できないウェイトを占めることも。

体育会系圧力が滅すれば、日本、良くなるとおもうんですよね。
でも。私できないよー。むずかしいよー。

いじょ。